幸福論 アラン

アラン

エミール=オーギュスト・シャルティエ(Emile-Auguste Chartier, 1868年3月3日 - 1951年6月2日)はフランスの哲学者。
アラン (Alain) というペンネームで知られる。ノルマンディー地方のモルターニュ=オー=ペルシュ生まれ。エコール・ノルマル・シュペリウール卒業後、リセの教師となる。過去の偉大な哲学者達の思想と彼独自の思想を絶妙に絡み合わせた彼の哲学講義は、学生に絶大な支持を受け、彼の教え子達の中からは、後の哲学者が多く輩出されている。平和主義と反戦思想を持ちながら、46歳で、第一次世界大戦に志願して従軍。3年後に除隊してアンリ四世校の教職に戻る。65歳で教職を退職し、83歳で亡くなるまで執筆活動を続けた。

幸福論

・人間の性格はこうこうだ、などと言ってはならない。邪魔をするピンをさがしたまえ。
(自分が努力しない言い訳をする人の多くがこれを言っている気がする、どうせ私は・・・だし)

・幸福であることのなかには、人が考えているよりももっと多くの意志の力が働いているものなのである。

・悲しみとは病気にすぎない。だからいろいろ理屈や理由を考えたりしないで、病気として我慢しなければならぬ。

・礼儀作法というものにすがり、微笑の義務と強制に助けを求めて、不機嫌を追い払おうとするのだ。ものごとに無頓着なな人間とのつきあいが大いに歓迎されるのはこのためである。

・本質的に人間は勇気をもっている。行動することは思いきって行うことだ。考えることは思いきって行うことだ。

・礼儀という習慣は、人間の思考に大きな影響をもっている。優しさ、親切、快活さなどをまねるならば、それは不機嫌、さらに胃腸病に対してさえも、りっぱに手当をしたことになる。(笑う猫には福来たる)

・我々を情念から開放するのは思考ではなくて、我々を開放するのはむしろ行動であるということである。

・要するに、どんなしかたでもいいから出発することが必要なのだ。どこへ行くかはそれから考えればいい。(よく言われる「見る前に飛べ」ですが、飛んだことのない人には、この飛ぶ行為が怖いのです、私もこの恐怖心に随分の間立ち止まっていました。でも、20センチ飛べばと思ったら?・・・飛べた\(^o^)/)

・この世を生きる秘訣は、私の見るところ、なによりもまず、自分のした決心や自分のやっている職業について決して自分自身と喧嘩しないことだ。そうではなくて、自分の決心や職業をちゃんとやってのけることだ。我々は自分がしたわけでもないのに、すでになされているこの選択のうちに、宿命を見たがるものである。しかし、この選択はわれわれを少しも拘束しない。悪い運などというものは、ありはしないのだから、良くしようと思えばどんな運も良くなるものなのである。自分の性質というものは、どんな野心家でもじゅうぶん満足させるほど豊かなものなのである。必然を力と化することこそ、りっぱで偉大な仕事なのだ。(見る前に飛べ。落ちたら、何故落ちたか考えましょう。飛ばないと、落ちる原因は永久に解らない)

・生きるとは、いわば前兆に挑戦することなのである。自分を甘やかし、印象を大事にしようものなら、この世界は我々の前に閉ざされる。

・「おれはこうなんだ。どうしようもないんだ」と言って呪いをかける。これもまた一つのめまいであり、このめまいが予言を成功させるのだ。

・過失の弁解の口実を周囲の物事や人々のなかにばかり探し求めている人間の形をした自動機械はどうしたものだろう。そこには喜びなんぞありはしない。不幸な人間のことに周囲の物事や人々が何の考慮も払いはしないことは、あまりにも明らかだからである。

・人に向かって決して顔色が悪いなどと言ってはならない。

・偉大なジャン・ジャック・ルッソーが「考えてばかりいる人間は堕落した動物である」と書いたのだ。

・人が欲しているのは行動することであって、耐え忍ぶことではない。人から苦しめられたり、耐え忍んだりすることは好まない。だから、行動を伴わない楽しみよりも、むしろ行動を伴う苦しみの方をえらぶのだ。

・本当の楽しみというものはまず苦しみを要求するものだからだ。だから、用心深く計算すると、必ず苦しみのほうが上まわる。懸念の方がいつも期待よりも強い。

・注意力の全てを大変難しい行動に向ける人、そういう人は完璧に幸福である。

・もし私が信頼すれば、彼は正直となる。非難してかかれば、彼は私のものを盗む。

・人間の状態というものは、不屈の楽観主義を規則中の規則として採用しないと、やがてもっと陰鬱な悲観主義が真実になるようにできているのである。

・優柔不断の中には暴力がある。「よし、すべてをご破算のしよう」ところが、思考がただちに妥協手段を与える。ああすべきか、こうすべきかさまざまな結果が考えられて、事態はいっこうに進展しない。現実の行動の利点は、はっきり決まらなかった考えは忘れられてしまうということ、適切に言えば、もう必要がなくなってしまうということである。なぜなら、行動が全ての関係を変えてしまっているからである。
だが、観念の中で行動するのは、なんの役にも立たない。全てはもとの状態にとどまったままである。あらゆる行動には賭けがある。思考がその主題をきわめつくす前に、考えることを終えていなければならないからだ。

・彼が決心した、というのはいい言葉だ。一言で、同時に「解決した」という意味をもっている。

・注目すべきことだが、人は道理にささえられ、明瞭な言葉で表された意見に対しては、無言の意見に対するよりも強く抵抗するものだ。

・陽気な表情は、それを示す本人を楽しい気持ちにする。まねることによってこうした表情はいくらでも送りかえされてくるからである。

・あら探しは何の役にも立たない。

・未来に幸福があるように思われるときには、よく考えてみるがいい。それはつまり、あなたはすでに幸福を持っていることなのだ。期待をもつということ、これは幸福であるということだ。
(じゃあ、そのためにはどうしたら良いの?お先真っ暗な人間って?未来のない人間って?・・・と、ひとのせいにしている限り)

・あるがままであってほしいと願うこと、ここにこそ真実の愛がある。

・当然くるものとして幸福を待っている限り、個人の生活は常に悲しいいものである。自分を愛してくれる人たちのためになし得る最善事業は、やはり自分が幸福になることだ。(棚からぼたもち・・は、あり得ない?)

・悲観主義は気分に由来し、楽観主義は意志に由来する。どんな場合でも理屈はどれいである。