博多人形の歴史、博多人形と陶人形との違いです。もう1つの歴史(追加)

博多人形の歴史

慶長6年(1601)黒田長政が福岡築城の時、瓦師の正木宗七が、 土を使って、人形を作ったのが博多人形の始まりです。

「博多焼」「宗七焼」と呼ばれ、4代宗七の時、文政年間(1818)中の子吉兵衛が初めて、 庶民向けの彩色人形(主に節句人形)を作りました。

明治23年(1890)第2回内国勧業博覧会で、それまでの 「博多素焼人形」から、「博多人形」へ呼び名が変わりました。

さらに人形師達は、洋画、彫刻から人体解剖学まで学び、写実的で優美、色彩豊かな「博多人形」を生み出しました。 明治33年(1900)フランス万国博、37(1904)年世界大博覧会で金牌を受けています。
昭和51(1976)年国の「伝統的工芸品」に指定されています。(博多人形小売商組合カタログより)

解説

1601年頃に作られた人形は、彩色もなく、型を使わない手びねりの素朴なものだったでしょう。 これから200年ほど経て、初めて彩色人形が現れています。

さらに90年を経て、明治23年(1890年)「博多人形」という名称が初めて使われ、 現在の博多人形の基礎が出来ました。

「人形師達は、洋画、彫刻から人体解剖学まで学び」という文言がありますが、全員ではありませんが、勉強している人もいます。
私もヌードデッサンを3年ほどやっていました。

博多人形の製作技法(陶人形との違い)

一品作を除いて、陶人形も博多人形も石膏型を利用して制作します。
また、紐作り人形、手びねり人形、にも挑戦しています。
詳しは制作過程ページをご覧下さい。

素焼きの後、博多人形は彩色をします。絵の具は、以前は日本画用の絵の具を使っていました。これは、岩石の粉などをにかわ(ゼラチン)で溶いて使用します。
顔の白い色は、胡粉(ゴフン)と言って、貝殻を焼いて製粉した炭酸カルシウムをにかわで溶いて塗った色です。

この絵の具は、大変繊細で、特に顔などを素手で触りますと、手の脂の跡が付いてしまいます。 それで、両手に軍手をします。

また、この絵の具はにかわ(ゼラチン)で溶きますので、夏は腐りやすくなります。その為、最近は化学染料を使う所が多くなりました。
着物の模様など描いて、最後に顔を描いて完成です。

陶器人形の製作技法

陶器人形は、素焼きの後、彩色したり釉薬を掛けたりして、本焼きします。
下絵の具は、釉薬の下側に使用する絵の具で、上に透明釉を掛けます。
この下絵の具は、鉄、銅、コバルト、ニッケルなどの金属の粉を調合して、青、緑、赤、その他の色が出るようにして高温焼成して安定させた物です。

私の場合、下絵の具の上に釉薬を掛けずに、そのまま焼き付けた物が多いです。全て焼き付けていますので、洗うことが出来ます。

博多人形 ・ もう1つの歴史(追加掲載)

世界の磁器人形になれなかった日

博多人形の道に入って5年以内の頃で、人形師としてはまだ、ひよこです。
と言うわけで、私は当事者から遠い所にいたので、正確な情報を知る立場にありませんでした。

ある地元新聞の地方版に「○○会社が磁器で製作した博多人形の展示会・場所は西鉄グランドホテル鳳凰の間」(文言は不正確)と掲載されているのを見て、驚いたと共にやられた、と感じたのを覚えています。

当時の西鉄グランドホテルは、まだホテルニューオオタニが出来る前で、福岡市で一番の超一流ホテルです。主催者に力が入っているのが分かります。
1975年に私が人形師の道に入った頃は、博多人形業界はすでに縮小の方に向かっていました。

私は「○○会社」の名前を知りませんでしたので、おそらく小さいほうの卸問屋さんだったのでしょう。たしか「白」の一文字が入っていたような記憶があります。
小さい会社であったからこそ、業界の危機を敏感に感じていたのでしょう。

「やられた」と感じたのは、博多人形の世界を救うには磁器人形に移るしか、方法がないと言う認識が、なんとなく広く浅くあったからです。
危機感もそれほど無かったのでしょう、誰も実行しようとしませんでした。古い世界にしがみついていたほうが楽だからです。私もしがみつきたい方でした。それで「やられた」と思ったのです。

しかし、新聞に掲載された翌日からこの話題は一切、表に出てきませんでした。

後に、先輩の人形師に聞いたのですが、有力な卸問屋さんが数軒、寄ってたかって潰してしまったそうです。私が「やられた」と感じたくらいなので、大きな問屋さんは「超やられた」だったでしょう。潰したと言うことは、博多人形は磁器人形に負けると言う認識を、皆持っていたのでしょう。

「○○会社」の発表の仕方も良くなかったかも知れません。一人勝ちしたくて、こっそり準備して突然大きな花火を打ち上げてしまったのでしょう。驚いたのは、安眠していた他のでかい卸問屋さん達です。

「○○会社」が業界全体のことを考え、他の卸問屋さんと利益を共有する形で話をもっていけば、また歴史は変わっていたかもしれません。

この事件で懲りたのでしょう、「博多人形を国の伝統産業品指定」の要望がされる時「博多人形とは素焼きに彩色されたもの」と言う条件が入りました。

残念ながら、この時から、マイセン人形より100年以上の歴史を持つ博多人形は永遠に「世界の磁器人形」の仲間に入る機会を失ったのです。
現在、当時の博多人形専門店や問屋さんの8割は姿を消しています。