端午の節句の由来
屋根より高い鯉のぼり
♪ 屋根より高い 鯉のぼり 大きい真鯉は お父さん ♪
♪
小さい緋鯉は 子供達 面白そうに 泳いでる ♪
真鯉(まごい)・・黒い鯉、緋鯉(ひごい)・・赤い鯉、 お母さんはどこにいるのでしょう?
屋根より高い鯉のぼり
♪ 屋根より高い 鯉のぼり 大きい真鯉は お父さん ♪
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小さい緋鯉は 子供達 面白そうに 泳いでる ♪
真鯉(まごい)・・黒い鯉、緋鯉(ひごい)・・赤い鯉、 お母さんはどこにいるのでしょう?
子供の日は、五節句の一つであり、 端午の節句、菖蒲の節句(しょうぶのせっく)とも呼ばれています。
五節句:節句は、中国大陸から伝わった暦の上の風習の一つです。日本の生活に合わせてアレンジされていくつもの節句が伝わっていましたが、
そのうちの5つを江戸時代に幕府が公的な行事・祝日として定めました。
旧暦では12支の午(うま)の月は5月にあたり、この午の月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、
のちに5が重なるこの月の5日が端午の節句の日になったといいます。
あるいは
「端」は物のはし、つまり「始り」という意味で、元々「端午」は月の始めの午の日のことでした。
後に、「午」は「五」に通じることから毎月5日となり、その中でも数字が重なる5月5日を
「端午の節句」と呼ぶようになったともいいます。
この日を端午とする風習は、3世紀の中国で始まったとされますが明らかではありません。
菖蒲(しょうぶ)蓬(よもぎ)
中国においては邪気(じゃき)を払い健康を祈願する日とされ、 野に出て薬草を摘んだり、蓬(よもぎ)で作った人形を飾ったり、菖蒲(しょうぶ)酒を飲んだりする風習がありました。
蓬(よもぎ)や菖蒲(しょうぶ)は邪気を
払う作用があると考えられていました。
現代の日本においても菖蒲や蓬を軒に吊るし、菖蒲湯(菖蒲の束を浮かべた風呂)に入る風習が残っています。
日本においては、男性が戸外に出払い、女性だけが家の中に閉じこもって、田植えの前に穢れ
(けがれ)を祓い(はらい)身を清める儀式を行う五月忌み(さつきいみ)という風習があり、
これが中国から伝わった端午と結び付けられました。
すなわち、端午は元々女性の節句でした。
宮中では菖蒲を髪飾りにした人々が武徳殿(ぶとくでん)
に集い天皇から薬玉(くすだま):をいただきました。
武徳殿(ぶとくでん):平安京大内裏(だいだいり)
の殿舎の名
薬玉(くすだま):薬草を丸く固めて飾りを付けたもの
かつての貴族社会では薬玉を作りお互いに贈りあう習慣もありました。
この宮中の行事については奈良時代に既にその記述が見られます。
鎌倉時代ごろから「菖蒲」が「尚武 (しょうぶ)と同じ読みであること、また菖蒲の葉が剣を形を連想させることなどから、端午は男の子の節句とされ、
男の子の成長を祝い健康を祈るようになりました。
尚武:
(しょうぶ):武道・軍事などを大切なものと考えること。「尚武の精神」
刀、武者人形や金太郎を模した五月人形などを室内の飾り段に飾り、
庭前に鯉幟(こいのぼり)を立てるのが、典型的な祝い方です。
鎧兜(よろいかぶと)には男子の身体を守るという意味合いが込められています。
こいのぼりをたてる風習は中国の故事にちなんでおり、男子の立身出世を祈願しています。
典型的なこいのぼりは、5色の吹き流しと3匹(あるいはそれ以上の)鯉のぼりからなります。
吹き流しの5色は五行説に由来します。
ちまき;米や米の粉などを笹の葉・竹の皮などで包み、藺草(いぐさ)で 三角形に巻き上げて蒸したもの。
端午の日には粽(ちまき)や柏餅(かしわもち)を食べる風習もあります。
粽(ちまき)を食べるのは、中国戦国時代の詩人
屈原(くつげん)の命日である
5月5日に彼を慕う人々が彼が身を投げた川に粽(ちまき)を投げ入れて供養したのが始まりとされます。
屈原:中国春秋戦国時代の楚国(
そのくに)の政治家、詩人。
政治家としては秦の張儀(ちょうぎ)の謀略
(ぼうりゃく)を見抜き、
踊らされようとする懐王(かいおう)を必死で諌めた
(いさめた)が、受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した。
屈原は宗族の一人であり、屈氏は楚でも最高の名門の一つであった。
謀略(ぼうりゃく):人をおとしいれるためのはかりごと
諌めた:目上の人に不正や欠点を改めるよう忠告する
柏餅(かしわもち)
柏餅(かしわもち)を食べる風習は日本独自のもので、柏は新芽が出るまで古い葉が落ちないことから 「家系が絶えない」縁起物として広まっていきました。
五月人形は、春分(3月21日頃)の日頃から、遅くとも四月中旬頃までには飾りましょう。
過ぎたらしまうのはなるべく早めに、五月中頃までの天気のよい、
カラッと晴れた日を選んで丁寧におしまいください。鯉のぼりも同様です。
次は 鯉のぼり です。