日本の人形の歴史
北村哲郎 編・日本の美術・人形(至文堂発行)より
私(西)の感・・・人形とは不思議な存在で、中途半端です。平田郷陽の芸術的な顔からアンパンマン人形のような玩具まで。彫刻を作りましょう!!!と言うと芸大では焦点が収れんしますが、人形を作りましょう・・・と言うと、学生は「えっ?」とポカンとすると思います。芸術???
人形の歴史とは?
土偶
BC3000年~BC300年に作られ、縄文期の終焉と共に衰退したと考えられます。
呪術的なものとして崇拝され、ある時は信仰的な行事に、あるいは埋葬のようなことにも関係した遺物、と解釈されています。
左の写真は、亀ヶ岡遺跡より出土された「遮光器型土偶」と言われるものです。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の写真)
埴輪(古墳時代)
古墳時代(4世紀中頃~6世紀)に作られ、権力者の大きな墓に並べられてきたものです。
5世紀末頃から、多数の人物埴輪が作られ、そのテーマも巫女・武人・楽人・鷹匠、農夫や子守、水瓶を運ぶ女、踊り狂う男女など、幅広く、身近な人々の生活の様を自由に、生き生きと写し作っているのです。
信仰の対象としての塑像・木像(飛鳥・奈良時代)
埴輪は、古墳時代の終焉と共に姿を消しますが、その優れた造形感覚は、その後に仏像と共に渡来した、中国の彫像技術に 磨きをかけられて、飛鳥・奈良時代の見事な仏像の中へ生かされていきました。
信仰の対象としての、釈迦やその眷属(けんぞく、従者、家来)、仏界の諸尊の彫像が多数、作られました。
仏様の彫像だけでなく、僧や役人など世俗の人たちも作られました。
涅槃像
法隆寺の五重塔内に置かれている塑像(粘土で作った像)がそれです。
この土で作られた塑像群は、維摩(ゆいま)と文殊(もんじゅ)の問答の情景、弥勒(みろく)の浄土、
謹んで問答を聞く従者、涅槃(ねはん)に号泣する弟子達など、物静かな、あるいは、荒々しい感情の動きを、
表情ばかりでなく、身体全体でとらえて、表現しています。
大きな物で像高1m弱、小さな物は17cmあまり、平均が40cm前後となっています。
仏に帰依し、仏を賛歌し、新しく厳しい造形の道に情熱を燃やした仏師達の、精進の表れですが、その優れた造形感覚の中に、埴輪を生んだ民族の美の伝統を見逃すわけには行きません。
風俗人形の現れ(鎌倉時代)
童子像(京都大将軍八神社所蔵)高さ80cm、芯をくりぬいた木彫彩色の人形。
鏑馬(やぶさめ)(奈良春日大社所蔵)高さ58cm、木彫彩色、鎌倉・室町時代に盛んに行われた、馬を駆けさせながら弓を射る競技です。
相撲像(滋賀県御上神社所蔵)木彫彩色、四つに組んだ力士(高24cm)と行司(高29cm)がセットになった物です。
民間信仰の対象
このような、世俗的な題材(童子など)による、崇拝の対象(仏像など)以外の彫像が、 鑑賞用人形の僅かな源流になったかも知れませんが、いろいろな宗教儀式や習俗の中に、人形が素朴な形で現れ、後世の信仰人形に受けつがれていきました。
おしらさま
信仰として、東北地方に多く残されていた、「おしら神」「おしらさま」というのがあります。
これは30~40cmの木の棒に、細かく裂いた布をたくさん着せた物で、ちり叩きの柄を短くしたような物です。
上に突き出た部分に、目鼻を描いたり、あるいは、烏帽子を被った顔が彫られていました。
この「おしらさま」を盲目の「いたこ」と呼ばれる巫女が捧げると、これに神霊が降りてきて、「いたこ」の口を仲介して神託を伝える、と人々は信じてきたのです。
「おしらさま」は巫女が祭文を唱えながら舞わした事から、手操り人形のもとになった、と言う説もあります。
折口信夫先生は、傀儡子(くぐつ)の使う人形は、本来遊興的なものでなく、傀儡子の仕える神の「かたしろ」(身代わり)であったと述べておられます。
傀儡子・・・平安時代、一種の賤民が歌を歌い、操り人形を舞わせた遊芸。
次は 博多人形の歴史 です。