金時
全体:高21cm 横14cm 奥11cm
(金時:高6cm 横8cm)
11,000円
座る熊を巧くデザインできたので、作ってみました。
かわいいお尻です。
台をつけていない理由・・・黒っぽい赤の台の上に黒い熊を乗せると
熊が台の中に落ち込むような感じになり、雰囲気が暗くなるためです。
お客様の声:ユニークな人形を探して 大阪府・八千代様より
お客様の声:迫力がある中にも暖かく 北海道・井上様より
次は 縁起の良い陶器人形 です。
金太郎伝説・・・金時神社伝説と足柄山伝説
◆金時神社(金太郎が祭られている神社)伝説
静岡県駿東(すんとう)郡小山町
金太郎は平安時代の天暦(てんりゃく)10年(956年)5月に誕生したとされています。
彫物師十兵衛の娘、八重桐(やえぎり)が京にのぼった時、宮中に仕えていた坂田蔵人(くらんど)と結ばれ懐妊し生まれた子供とされています。
八重桐は故郷に帰り金太郎を産みましたが、夫の坂田が亡くなってしまったため、京へ帰らず故郷で育てることにしました。
成長した金太郎は足柄山で熊と相撲をとり、母に孝行する元気で優しい子供に育ちました。
そして天延4年3月21日(976年4月28日)、足柄峠にさしかかった源頼光(みなもとのよりみつ)と出会い、その力量を認められて家来となりました。
名前も坂田公時(きんとき)と改名し、京にのぼって頼光四天王の一人となりました。
なお、他には渡辺綱(わたなべのつな)、卜部季武(うらべのすえたけ)、
碓井貞光(うすいのさだみつ)が四天王に名を連ねます。
永祚(えいそ)2年3月26日(990年4月28日)、丹波の国、大江山(現在京都府福知山市)に住む酒呑童子(しゅてんどうじ・鬼の頭領)を退治します。
酒呑童子は都に出てきては悪いことをするため、源頼光や四天王たちが山伏姿に身をかえて、
神変奇特酒(眠り薬入り酒)を使って退治しました。
坂田公時は寛弘(かんこう)8年12月15日(1012年1月11日)、九州の賊を征伐するため築紫(つくし・現在北九州市)へ向かう途中、作州路美作(さくしゅうじみまさか)の
勝田壮(現在の岡山県勝央町)にて重い熱病にかかり死去しました。享年55歳でした。
勝田の人々は公時を慕い、倶利加羅(くりがら、剛勇の意)神社を建てて葬りました。その神社は現在、栗柄神社(くりからじんじゃ)と呼びます。
以上が金時神社に記された金太郎の伝説です。
実はその存在は疑わしいともされています。しかし、藤原道長の日記『御堂関白記』など当時の史料によると、下毛野公時(しもつけぬのきんとき)という優秀な近衛兵(随身)が道長に仕えていたことは確かで、この公時(きんとき)が脚色されていったものらしい。
頼光・道長の時代から100年ほど後に成立した『今昔物語集』では、公時の名の郎党が、頼光の家来として登場しています。現在の金太郎伝説が完成したのは江戸期であり、浄瑠璃や歌舞伎を通して頼光四天王の怪力童子のイメージが定着していきました。
鉞(まさかり、大斧)担いで熊の背に乗り、菱形の腹掛けを着けた元気な少年像として、五月人形のモデルとなりました。この姿から、かつて日本各地で乳幼児に着用させた菱形の腹掛けもまた「金太郎」と呼びます。
静岡県駿東(すんとう)郡小山町の金時神社には金太郎の伝説のあるちょろり七滝や第六天社があります。
ちょろり七滝の水は金太郎が産まれたとき、産湯として使ったといわれており、住まいである金時屋敷(現在の金時神社)の裏にあります。金太郎が丈夫に育ち立派な武将となったことから、周辺の人々は子供が産まれると、この滝の水を産湯にしたといわれています。
第六天社は金太郎親子が深く信仰しており、母の八重桐が赤いごはんや魚を捧げたりするのを真似て、
金太郎はメダカを捕らえてきては生きたまま器に入れ、社前に捧げたといわれています。
◆足柄山伝説
また、南足柄市には夕日の滝という場所があり、金太郎は四万長者の屋敷で産まれ、 この滝の水を産湯にしたという伝説もあります。
地蔵堂に四万長者がおり、その名前を足柄兵太夫と言います。 この長者に八重桐という一人の娘がいました。八重桐は縁あって酒田氏に嫁ぎましたが、酒田一族の争いから逃れるため、
地蔵堂の屋敷へもどり金太郎を産みました。
金太郎が産まれた時に、屋敷近くにある夕日の滝の水を産湯に使いました。
こうして足柄山に金太郎が誕生し、やがて金太郎は人一倍元気に育ち、長者屋敷の庭石である「かぶと石」や「たいこ石」
に登って遊んだり、「金時山」へ出かけたりして足柄山を自分の庭のように遊びまわり、山の動物たちもいつしか
金太郎の遊び相手になったのでした。
やがて金太郎は足柄山の怪童と人々から、うわさされるほどのたくましい青年に成長し、 ある日、足柄山中にて源頼光と運命的な出あいをしました。そして頼光の家来として取りたてられ坂田金時と改名し、 京の都へ上り渡辺綱・碓井貞光・卜部季武らとともに、源頼光の四天王の一人として大江山の酒呑童子退治をしたりして、 その名前を天下にとどろかせました。
その後、源頼光が亡くなると三ヶ月間、日夜、頼光のお墓参りをした後、 都を去り、ふるさとの足柄山へもどり、その行方をくらましてしまったのでした。
◆その他の伝説
滋賀県長浜市と米原市は、昔は坂田郡であり、坂田金時は坂田郡の人であると伝えています。今も長浜市には足柄神社や芦柄神社が何カ所もあり、子ども相撲が今も連綿と行われています。
なお、この地域は古代豪族息長氏(おきながうじ)の本拠地であり、金時はその一族であるといいます。
王の文字はマサカリの象形文字で、腹掛け姿は鍛冶を象徴することから、いち早く鉄文化を手に入れた豪族らしい。
次は 縁起の良い陶器人形 です。