菅原道真の由来
菅原道真(すがわらのみちざね)
承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日)
日本の平安時代の学者、詩人、政治家です。
特に漢詩に優れ、現在は学問の神として親しまれています。
33歳のときに文章博士に任じられました。
宇多天皇に重用され右大臣にまで昇りますが、次の醍醐天皇(だいごてんのう)の時、左大臣藤原時平(ふじわらのときひら)に告げ口をされ、大宰府へ権帥(ごんのそち:長官代理)として左遷されました。
長男高視(たかみ)を初め、子供4人も流刑に処されました。
道真は903年大宰府で没し、同地に葬られました(現在の安楽寺)。
天神信仰
道真の死後、京には異変が相次ぎました。
醍醐天皇の皇子が次々に病死しましたし、さらには清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出ました。
これらが道真のたたりだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に位を送りました。
子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返されました。
清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられました。
元々京都の北野の地には火雷天神という地主神が祀られており、朝廷はここに北野天満宮を建立して道真のたたりを鎮めようとしました。
以降、道真を「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになります。
道真が生前優れた学者・歌人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになりました。
道真が梅を愛し、庭の梅の木に
「東風(こち)吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
と和歌を詠み、その梅が大宰府に移動したという飛梅伝説ができたことから、梅がシンボルになっていることが多いようです。
道真が大宰府に流されていった道筋に主要な天満宮の多くはあり、その内特に道真と関係が深いという北野・防府・大宰府の三つの天満宮については、「三天神」と呼ばれています。
私も毎年、防府の毛利邸で個展をしていますが「防府天満宮」には1回行った事があります。これも天神様のお引き合わせでしょうか。
九州に流されていく途中に、この地にしばらく滞在された、という事です。
天満宮の臥牛
菅原道真と牛との関係は深く
「道真の出生年は丑年である」
「大宰府への左遷時牛が道真を泣いて見送った」
「道真は牛に乗り大宰府へ下った」
「道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した」
「牛が刺客から道真を守った」
「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」
など、牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在します。
これにより牛は天満宮において祭神の使者とされ臥牛の像が決まって置かれています。
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